12月 262012
 

コミュニティーを考える上で、大切なことは、もしかしたら、「目的」ではなく「認識」なのではないのかな?と、ふと思いました。
核となるものは、共通の「目的」ではなく、共通の「認識」。

昨日は、クリスマス・イブということもあり、伊勢崎のキリスト教会に行ってきました。
おととし、初めて行ったのですが、その時、「これはいい」と思ったのです。
わたしは、とくにキリスト教信仰というわけではありませんが、そこの人たちの心根の優しさがじわじわにじみ出てくる集まりが、ものすごく心地よかったのです。

そして、この優しい温もりに包まれているような不思議な感覚は何かな?と思いました。
後々思い返しながら達した結論は、「あぁ、これがコミュニティーのあり方なのか」ということでした。

教会という場は、考えてみれば、とても不思議な場所です。
みんなが集まって何をするかという「目的意識」ではなく、みんながキリスト教を信仰しているという共通のことがベースにあり、日曜礼拝を行ったり、聖書の勉強会を行ったり、クリスマスのキャンドルライトを行ったりするのです。

確かに教会という箱ものはあります。
しかし、それは、いわば単なる箱であり、教会はなければないで活動はできます。
本来、コミュニティーとはそういうものなのではないのだろうか?と思うのです。

生まれ育った町が衰退していく、それを黙って見ているのはしのびない、だから町をもう一度再生しよう、という感じで、「町の再生」を「目的」にするのもいいのでしょう。
ただ、それよりも前段階の部分が、コミュニティーデザインにおいては、もっと大切です。
・町が疲弊している
・このままではしのびない
・なにか打つ手はないか
というベースとなる共通認識を徹底させることが、より重要で、それが新たなコミュニティーへと生まれ変わる最初の一歩かなと思います。

ただ、それはものすごく手間や時間のかかる、根気のいる過程(作業)なのでしょう。
ですから、そこを端折って、すぐに「目的」に飛びついてしまうのです。

しかし、これからのコミュニティーはむしろ、そこの面倒くさい、手間暇のかかるその共通認識の形成こそが、コミュニティーの根幹になり、それができれば自ずと「目的」へと進むのかと思います。

と、こんな感じに書いていますが、これって、実は、昔の日本人が時間をかけてやっていたことでもあるんですよね。
それが面倒くさいから、家族の形を変え、世の中のコミュニティーを変え、日本社会を変え、結果、今のような個人主義の確立された日本の社会構造になっている、とも言えるのです。

宮本常一の本を読めば、かつての日本のコミュニティーがどんな感じだったか勉強になります。

『忘れられた日本人』 宮本常一

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